INICIAR SESIÓN翌朝、喫茶こもれびのテーブルには、白湯と卵焼きと、昨日のラジオのコメント欄が並んでいた。
正確には、コメント欄はノートパソコンの画面の中にある。
でも、感覚としては、テーブルの上に置かれているようだった。
白湯のカップ。
少し焼き目のついた甘い卵焼き。 日向弁当の小さなおにぎり。 そして、夜のどこかから届いた、知らない人たちの言葉。【いいと思う】
【今日、何もできなかった】 【仕事休んだ】 【学校行けなかった】 【一日布団にいた】 【でも今これ聞いてる】 【役に立てない日、あります】 【生きてていいって言ってほしい】 【白湯しか飲んでない】 【でも白湯飲めたから勝ちにしたい】白瀬こはるは、そのコメント欄を何度も読んでいた。
朝から、ずっと。
声は出していない。
喉を休ませるためでもあるし、昨日の電話と配信で、心の方が疲れているのもあった。
それでも、こはるは画面から目を離さなかった。
俺はカウンターでコーヒーを淹れながら、その様子を見ていた。
「読みすぎると疲れるぞ」
こはるは、ホワイトボードに書いた。
【疲れます】
「じゃあ休め」
【でも、読みたいです】
「疲れるのに?」
【はい】
少し間を置いて、彼女は書き足す。
【私だけじゃなかったので】
その文字を見て、俺は何も言えなくなった。
昨夜、こはるはラジオで問いかけた。
『誰かの役に立てない日も、生きていていいんでしょうか』
それは、誰かに向けた問いであると同時に、こはる自身がずっと自分に投げつけていた問いだった。
役に立てないなら価値がない。
声が出せないなら意味がない。 お金を入れられないなら迷惑。 笑えないなら、月乃こはねではいられない。そういう考えが、彼女の中に深く刺さっていた。
けれど、コメント欄には、同じように刺さっている人間たちがいた。
仕事を休んだ人。
学校に行けなかった人。 一日布団にいた人。 白湯しか飲めなかった人。何もできなかった、と言いながら、それでも夜の商店街のラジオを聞いていた人たち。
こはるは、彼らの言葉を読むたびに、少し泣きそうな顔をした。
悲しいのではない。
いや、悲しくもあるのだろう。
でも、それだけではない。
一人じゃなかった。
そう知ることは、救いであり、同時にとても痛いことでもある。
「黒瀬さん」
こはるが、掠れた声で俺を呼んだ。
「今日は声を使わない予定じゃなかったか」
「……少しだけ」
「その少しだけが増えると、真柴さんに怒られるぞ」
こはるはホワイトボードに書いた。
【真柴さんは、怒りながら白湯を出しそうです】
「だいぶ商店街に毒されてきたな」
こはるは少しだけ笑った。
そして、声を使わずにホワイトボードへ書く。
【コメント、返した方がいいですか】
「返したいのか?」
【返したいです】
「全部に?」
こはるは少し考え、首を横に振った。
【全部は、無理です】
「そうだな」
【でも、読んだことは伝えたいです】
俺はコーヒーをカップに注いだ。
自分用だ。
朝から飲むには、やはり少し苦い。 源三さんなら腹が立つまずさと言うだろう。「なら、今夜のラジオで言えばいい」
こはるの手が止まる。
「無理ならしなくていい。でも、コメント一つずつに返すより、今日来てくれた人にまとめて言う方が、今のお前には楽かもしれない」
【今日も、やっていいんですか】
「やりたいなら」
【怖いです】
「だろうな」
【でも、昨日のままだと、少し苦しいです】
「苦しい?」
こはるは、しばらくホワイトボードを見つめた。
それから書く。
【生きていていいんでしょうか、で止まっているので】
俺は、カップを持つ手を止めた。
【いいと思う、とコメントをもらいました】
【でも、私がまだ、いいと言えていません】その文字は、静かだった。
でも、重かった。
他人から「いい」と言われることと、自分で「いい」と思えることは違う。
こはるは、まだ自分に許可を出せていない。
だから、続きを話したいのかもしれない。
「分かった」
俺は頷いた。
「今夜は、“役に立たない日のラジオ”だな」
こはるは目を丸くする。
【タイトルですか】
「仮タイトル」
【少し、刺さります】
「だよな。じゃあ柔らかくするか。“白湯と役に立たない日”」
【白湯が強いです】
「白湯は最近、この番組の看板だからな」
こはるは、少しだけ笑った。
その時、扉のベルが鳴った。
「おはよー。補給班、今日はちょっとだけ暗めでーす」
日向芽衣が入ってきた。
自分で言っている。
片手に弁当袋、もう片方に小さな保温ポット。
髪はいつもより少しだけ整っていない。 でも、顔は昨日より楽そうだった。「暗め宣言して入ってくるの、新しいな」
俺が言うと、芽衣は肩をすくめた。
「昨日、明るくない日もいていいって話になったので」
「早速実践か」
「うん。でも弁当は持ってきた。暗めでも卵焼きは焼ける」
こはるがホワイトボードを見せる。
【おはようございます。暗めの芽衣さん】
「おはよう、声を使わないこはるちゃん」
芽衣は笑った。
その挨拶は変だった。
でも、何となく正しかった。
今日の自分をそのまま名乗る。
明るくない芽衣。
声を使わないこはる。なら、俺は何だろう。
まずいコーヒーの黒瀬か。
通知に怯える元実況者か。 それとも、カウンターで寝落ちする首痛め店主か。どれも嫌だな。
芽衣は袋から卵焼きと小さなおにぎりを出した。
「今日は、昨日の配信を聞いた父さんが“役に立たない日用弁当を作る”って言い出して」
「何だその弁当」
「母さんが止めた」
「賢明」
「父さん的には、唐揚げと卵焼きと白米だけの、考えなくても食べられる弁当らしい」
「意外と悪くないな」
「でしょ? でも名前が重いから却下」
こはるはホワイトボードに書く。
【考えなくても食べられる弁当】
芽衣が頷く。
「疲れてる時って、おしゃれなご飯より、そういうのの方が助かる時あるじゃん。箸を伸ばせば味が分かるやつ」
「分かるな」
俺は言った。
「炎上直後、何食っても味しなかったけど、コンビニのおにぎりだけはたまに食えた」
芽衣が少しだけ顔を曇らせる。
「何味?」
「ツナマヨ」
「そこは梅じゃないんだ」
「疲れてる時のツナマヨは強い」
こはるがホワイトボードに書く。
【ツナマヨは、役に立たない日用ですか】
「かもしれない」
芽衣が真剣に頷く。
「じゃあ日向弁当でもツナマヨおにぎり作ろうかな」
「弁当屋として普通にありだな」
「商品名は?」
「役に立たない日用ツナマヨ」
「重い」
「じゃあ、今日はこれでいいツナマヨ」
「ちょっといい」
こはるの肩が揺れた。
声は出さない。
でも、笑っている。芽衣は、それを見て少し嬉しそうにした。
昼前、源三さんが来た。
新聞と、なぜか紙袋を持っている。
「黒瀬」
「はい」
「コーヒーはいらん」
「え、今日もですか」
「今日はこれを飲む」
紙袋から出てきたのは、ペットボトルの水だった。
「水?」
「白湯にしろ」
俺は目を瞬かせた。
「源さんが白湯?」
「ラジオで白湯白湯とうるさいからな。試してやる」
「何で上からなんですか」
「客だからだ」
芽衣が笑う。
「源さん、白湯陣営入り?」
「陣営とは何だ」
「卵焼き、白湯、おにぎり、まずいコーヒーの勢力争いです」
「くだらん」
「でも白湯飲むんですよね」
「飲む」
俺は湯を沸かした。
源三さんが白湯を飲む。
店内に、妙な緊張が走る。
源三さんは一口飲んで、しばらく黙った。
「どうですか」
俺が聞く。
「……味がない」
「白湯ですからね」
「まずくはない」
「白湯が褒められた」
芽衣が小さく拍手する。
こはるはホワイトボードに書いた。
【勝ちです】
源三さんは不機嫌そうにカップを置く。
「何でも勝ちにするな」
「最近のこもれびは勝ち判定が甘いんです」
俺が言うと、源三さんは鼻を鳴らした。
「甘くていい日もある」
全員が源三さんを見た。
「何だ」
「いや、いいこと言うなと思って」
「わしは毎日言っとる」
「毎日は言ってないです」
源三さんは、こはるを見る。
「昨日のラジオ、商店街の何人かが聞いとった」
こはるの表情が少し緊張する。
【変でしたか】
「変だ」
即答だった。
こはるが固まる。
俺は慌てて言う。
「源さん」
「だが、悪くない」
源三さんは続けた。
「夜に若いもんが、役に立たない日だの白湯だの喋っとる。普通に考えたら変だ」
「まあ、否定はできません」
「でもな」
源三さんは、白湯のカップを見た。
「この商店街も、役に立っとるのか分からん日が多い」
芽衣が黙った。
源三さんは淡々と言う。
「客は減る。店は閉まる。若いもんは出ていく。祭りも縮む。会議をしても決まらん。わしらは何の役に立ってるんだと思う日もある」
源三さんが、そんなことを言うのは珍しかった。
こはるも真剣な顔で聞いている。
「でも、朝になればシャッターを上げる。誰かが来るかもしれんからだ。来ない日もある。来ない方が多い店もある。それでも開ける」
白湯の湯気が、少しだけ揺れる。
「役に立つかどうかは、後から誰かが勝手に決めることもある。本人は、開けるだけで精一杯の日もある」
こはるの目が揺れた。
源三さんは立ち上がった。
「今日ラジオをやるなら、そう言っとけ」
「源さんが言えばいいじゃないですか」
俺が言うと、源三さんは露骨に嫌な顔をした。
「嫌だ」
「なぜ」
「恥ずかしい」
「そこは恥ずかしいんですね」
「わしは聞かん。言うなら黒瀬が言え」
「はいはい」
源三さんは、白湯を完飲した。
そして、帰り際に言った。
「白湯は、まずくない」
それは彼なりの最大級の評価だった。
こはるは、ホワイトボードに書いた。
【源さん、白湯に勝ちました】
「勝ったのは源さんなのか白湯なのか」
芽衣が真剣に考える。
「引き分け?」
「白湯と老人の引き分け」
「何の競技だよ」
午後。
こはるは少し眠った。
昨日の母親との電話、夜の配信、今朝のコメント欄。
体より先に、心が疲れているのが分かった。芽衣は、カウンターで弁当屋の伝票を整理していた。
完全に自分の店の仕事をこちらに持ち込んでいる。
「日向弁当の事務仕事、うちでやるなよ」
「こもれび、静かで捗るんだもん」
「喫茶店としては褒められてるのか微妙だな」
「あと、こはるちゃんが寝てると安心する」
「分かる」
芽衣は伝票に数字を書きながら、ふと呟いた。
「昨日、母さんに言った」
「何を」
「明るくない日もあるって」
俺は、手を止めた。
「言えたのか」
「うん。いや、めちゃくちゃさらっとだけど。“今日はちょっと明るくないから、皿洗いだけで許して”って」
「お母さんは?」
「“じゃあ揚げ物は父さんに任せると危ないから、私がやるわ”って」
「実務的だな」
「でも、そのあと、焼きプリン出してくれた」
「優しいな」
「うん」
芽衣は少し照れくさそうに笑った。
「家族ってさ、言ってみたら案外通じる時もあるんだね。通じない時もあるけど」
「そうだな」
「こはるちゃんも、いつかそうなるといいね」
「……そうだな」
こはるの母親との電話を思い出す。
あれは、すぐに解決するものではない。
母親は泣いた。
こはるも泣いた。 お互いを傷つけた。でも、こはるは言った。
私は、お金じゃないです。
家族なら、休みたいと言った時に、休んでいいと言ってほしかったです。
あれは、たぶん始まりだ。
決裂ではなく、始まりであってほしい。
そう願うことしかできない。
夕方、こはるが起きた。
芽衣がすぐに白湯を出す。
「補給」
こはるは受け取って、ゆっくり飲む。
【今日、話します】
ホワイトボードに書いた。
俺は頷いた。
「短くな」
【はい】
「源さんの話も入れるか?」
【入れたいです】
「じゃあ、“シャッターを上げるだけの日”だな」
こはるは、その言葉を書き留めた。
【シャッターを上げるだけの日】
その夜。
喫茶こもれびの灯りは、いつもより少しだけ早く落とした。
表の看板は下げ、カーテンは半分。
カウンターにマイク。 横に白湯。 補給班の芽衣は、今日は卵焼きではなく、小さなツナマヨおにぎりを持ってきた。「試作品」
「本当に作ったのか」
「商品名は未定。候補は“今日はこれでいいツナマヨ”」
「かなりいい」
「でしょ」
こはるは、ホワイトボードに書いた。
【役に立たない日用ツナマヨも好きでした】
「重い方も候補に残す?」
「販売しづらいだろ」
そんなやり取りをしながら、配信準備を進める。
番組名は変わらない。
『夜の商店街、まだ明かりついてます』
説明文。
『今夜は、役に立たない日の続きです。白湯と、シャッターを上げるだけの日の話を少し。』
配信開始。
同接、七。
開始直後に、もう七人。
コメントが流れる。
【こんばんは】
【白湯持ってきた】 【昨日聞いて泣いた】 【今日は布団から聞いてます】 【ツナマヨ食べてる】俺はマイクに向かった。
「こんばんは。夜の商店街、まだ明かりついてます。今夜は、昨日の続きです。役に立たない日の話をします。ただし、途中でツナマヨの話が入る可能性があります」
コメント。
【ツナマヨw】
【重い話にツナマヨ】 【助かる】芽衣が後ろで小声で「ツナマヨ勝った」と言った。
「補給班、静かに」
こはるが少し笑う。
俺は続けた。
「昨日、“誰かの役に立てない日も、生きていていいんでしょうか”という話をしました。コメントを読みました。仕事を休んだ人、学校に行けなかった人、一日布団にいた人、白湯しか飲めなかった人。色んな人がいました」
コメント欄は静かだった。
でも、人は増えている。
同接、二十一。
「今日は、その続きです」
俺は、こはるを見る。
こはるは頷いた。
マイクを少し向ける。
「……こんばんは」
こはるの声は、まだ少し掠れている。
でも昨日より、呼吸が落ち着いていた。
「昨日のコメント、読みました」
コメント。
【読んでくれたんだ】
【ありがとう】 【無理しないで】 【聞いてます】こはるは、ホワイトボードに書いたメモを見ながら話す。
「何もできなかった人が、たくさんいました」
少し間を置く。
「私も、昨日は……あまり、何もできませんでした」
芽衣が、じっとこはるを見ている。
「でも、白湯を飲みました。卵焼きを、少し食べました。泣きました。寝ました」
コメント欄がゆっくり流れる。
【十分】
【それはできてる】 【泣くのも疲れる】 【寝られたなら勝ち】こはるは、画面を見て少し目を潤ませた。
でも、泣き崩れはしない。
今日は、ちゃんとそこに座っている。
「商店街の人が、言っていました」
源三さんの名前は出さない。
でも、彼の言葉を借りる。
「役に立つかどうかは、後から誰かが勝手に決めることもある。本人は、シャッターを上げるだけで精一杯の日もあるって」
コメントが止まった。
少しして、流れ始める。
【シャッターを上げるだけの日】
【刺さる】 【今日はカーテン開けただけ】 【メール一通返しただけ】 【お風呂入っただけ】 【それでもいいのかな】こはるは、小さく頷いた。
「いい、と思います」
声は細い。
でも、昨日より少しだけ強い。
「私はまだ、自分に言うのは難しいです。でも、コメントをくれた人には、言えます」
彼女は、ゆっくり言った。
「今日、何もできなかった人も。布団にいた人も。白湯しか飲めなかった人も。カーテンを開けただけの人も。ここにいるなら……今日は、そこまでで勝ちにしてもいいと思います」
コメント欄が流れる。
【泣いてる】
【勝ちにします】 【今日は勝ち】 【白湯飲んだので勝ち】 【カーテン開けたので勝ち】 【生きてるだけで勝ちって言われるの苦手だけど、今日は少し受け取る】俺は、そのコメントを見て喉の奥が熱くなった。
生きてるだけで勝ち。
その言葉は、軽く言われると時々しんどい。
でも、今夜のこの場所では、少しだけ違う響きがした。
雑に励ます言葉ではなく、白湯やツナマヨやシャッターの音と一緒に置かれた、生活の言葉になっている。
俺はマイクを引き取った。
「役に立たない日って言うけど、飯食って寝るだけの日に救われることもあります。俺はここ数日、卵焼きと白湯とツナマヨにだいぶ救われています」
芽衣が後ろから言った。
「うちの卵焼きに変な責任背負わせないでください」
コメント欄が一気に和らぐ。
【補給班w】
【卵焼き強い】 【ツナマヨも強い】 【白湯陣営です】 【まずいコーヒーは?】「まずいコーヒーは、夜に諦めがつく味です」
コメント。
【出たw】
【諦めの味】 【飲みたい】 【まずいコーヒー陣営います】芽衣が小声で言う。
「まずいコーヒー陣営できた」
「できなくていい」
こはるが笑った。
声は出さないようにしているが、笑っているのがマイクに少し乗った。
コメント。
【今笑った?】
【かわいい】 【無理しないで】 【笑い声助かる】俺はすぐに話題を変えた。
こはるの声への反応が増えすぎるのは避けたい。
「補給班からツナマヨおにぎりの試作品が届いています。商品名候補は“今日はこれでいいツナマヨ”です」
コメント欄がまた笑いに変わる。
【商品化希望】
【今日はこれでいいツナマヨw】 【それ買いたい】 【役に立たない日用弁当もほしい】芽衣が後ろで「父さんが喜ぶ」と呟いた。
「今のは聞かなかったことにしてください。日向家に余計な仕事が増えます」
コメント。
【日向家?】
【補給班の家?】 【商店街感すき】俺は、少しだけ警戒しつつも、空気を保った。
場所は出さない。
名前も出さない。 でも、商店街の温度だけは伝える。配信は三十分で終わった。
同接最大、五十八人。
数字を見た瞬間、俺は少し身構えた。
増え方が早い。
十二人。
二十七人。 五十八人。まだ小さい。
けれど、確実に広がっている。
こはるは画面を見て、目を丸くした。
「……五十八人も」
声が出た。
芽衣が言う。
「五十八人も、だね」
こはるは頷いた。
怖さと嬉しさが混ざった顔。
俺は言った。
「今日はここまで。アーカイブのコメントは、俺が先に見る」
こはるは頷く。
「……はい」
配信後のコメント欄には、固定リスナーのような名前がいくつか見え始めていた。
白湯の人。
寝る前トマト。 まずコー気になる。 布団民。 ツナマヨ待機。匿名ラジオなのに、リスナー側に妙な名前がついていく。
芽衣がそれを見て笑った。
「布団民、いいね」
「いいのか?」
「分かんない。でも、何か居場所っぽい」
こはるは、その名前たちを見ていた。
そして、小さく言った。
「……顔が、少し見えます」
「そうだな」
「多くなっても、見えますか」
その問いに、俺はすぐ答えられなかった。
増えれば、いずれ流れになる。
流れになれば、顔は見えにくくなる。
それを俺は知っている。
でも、今ここで、それだけを言うのも違う。
「見えなくなりそうなら、止まればいい」
俺は言った。
「全部拾おうとしなくていい。全部見ようとしなくていい。顔が見えるところまででいい」
こはるは、ゆっくり頷いた。
その夜、俺たちはアーカイブを残した。
コメントも、しばらく穏やかだった。
だが、深夜。
俺のスマホではなく、ラジオ用アカウントの通知が小さく増えた。
誰かが、感想を書いていた。
【夜の商店街って匿名ラジオ、ちょっといい。白湯飲みたくなるし、役に立たない日でも少しだけ息できる】
その投稿には、まだ数件しか反応がなかった。
でも、確かに外へ出ていた。
夜の商店街の小さな明かりが、商店街の外へ、ほんの少しだけ漏れ始めている。
俺は画面を見つめた。
嬉しい。
怖い。
どちらも本当だった。
カウンターの奥では、こはるがソファで眠っている。
芽衣は日向弁当に戻った。 源三さんはたぶん、家で寝ている。喫茶こもれびの灯りは、もう落としてある。
それでも、画面の中では、まだ小さな明かりが残っていた。
俺は、まずいコーヒーではなく、白湯を飲んだ。
「……まずくはないな」
思わずそう呟いて、少し笑った。
源三さんみたいだ。
役に立たない日でも、白湯くらいは飲める。
今日は、それで勝ちにしておくことにした。
第16話 役に立たない日のラジオ 翌朝、喫茶こもれびのテーブルには、白湯と卵焼きと、昨日のラジオのコメント欄が並んでいた。 正確には、コメント欄はノートパソコンの画面の中にある。 でも、感覚としては、テーブルの上に置かれているようだった。 白湯のカップ。 少し焼き目のついた甘い卵焼き。 日向弁当の小さなおにぎり。 そして、夜のどこかから届いた、知らない人たちの言葉。【いいと思う】【今日、何もできなかった】【仕事休んだ】【学校行けなかった】【一日布団にいた】【でも今これ聞いてる】【役に立てない日、あります】【生きてていいって言ってほしい】【白湯しか飲んでない】【でも白湯飲めたから勝ちにしたい】 白瀬こはるは、そのコメント欄を何度も読んでいた。 朝から、ずっと。 声は出していない。 喉を休ませるためでもあるし、昨日の電話と配信で、心の方が疲れているのもあった。 それでも、こはるは画面から目を離さなかった。 俺はカウンターでコーヒーを淹れながら、その様子を見ていた。「読みすぎると疲れるぞ」 こはるは、ホワイトボードに書いた。【疲れます】「じゃあ休め」【でも、読みたいです】「疲れるのに?」【はい】 少し間を置いて、彼女は書き足す。【私だけじゃなかったので】 その文字を見て、俺は何も言えなくなった。 昨夜、こはるはラジオで問いかけた。『誰かの役に立てない日も、生きていていいんでしょうか』 それは、誰かに向けた問いであると同時に、こはる自身がずっと自分に投
第15話 こはるの母からの電話 白瀬こはるの母親から連絡が来たのは、昼過ぎだった。 その日は、ラジオを休みにする予定だった。 こはるの喉は昨日より落ち着いていたが、まだ長く話すと掠れる。 真柴さんからも「今日はなるべく声を使わないでください」と連絡が来ていたし、芽衣も「今日は完全休養。補給班命令」と言っていた。 だから、喫茶こもれびの昼は比較的静かだった。 源三さんは午前中に来て、コーヒーを飲み、いつも通り「まずい」と言って帰った。 佐伯さんはナポリタンではなく白湯だけ頼み、「白湯って、何もしない味がするわね」と謎の名言を残した。 八百屋の親父さんはきゅうりのポップが気に入ったらしく、「まっすぐじゃないけど、ちゃんと冷たい」が売れていると報告しに来た。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードではなくメモ帳に新しいポップ案を書いていた。『古いゲーム機です。 でも、負けた時の悔しさは新しいです。』 ゲームセンターの朝日さん用らしい。 俺がそれを見て「名文だけど客が怖がらないか」と言うと、こはるは少しだけ笑い、下にこう書き足した。『勝ったら、もっと新しいです。』「商売が分かってきたな」 俺が言うと、こはるはホワイトボードに書いた。【商店街に染まってきました】「染まると戻れなくなるぞ」【少し怖いです】「だろうな」【でも、嫌じゃないです】 その文字を見て、俺は少しだけ安心していた。 嫌じゃない。 最近のこはるは、その言葉をよく使うようになった。 好き、と言うにはまだ怖い。 楽しい、と言い切るにはまだ心が追いつかない。 でも、嫌じゃない。 そのくらいの距離感が、今の彼女にはちょ
第14話 芽衣は、少しだけ面白くない 日向芽衣は、明るい。 少なくとも、この商店街ではそういうことになっている。 日向弁当の娘。 いつも声が大きくて、配達用の自転車を全力でこいでいて、揚げたての唐揚げを一つ多く入れたことを母に怒られ、父の揚げすぎを止め、常連の老人に雑に絡み、客の愚痴を「はいはい」と聞き流しながら、最後には笑って弁当を渡す。「芽衣ちゃんがいると、店が明るくなるね」 そう言われるのは、嫌いではなかった。 むしろ、嬉しかった。 自分がいることで、誰かが少し楽になるなら。 沈みかけた商店街の中で、日向弁当の灯りが少しでも明るく見えるなら。 それは、まあ、悪いことではない。 でも、たまに思う。 明るいって、便利な言葉だ。 明るい子は怒らない。 明るい子は面倒を拾える。 明るい子は、冗談で返せる。 明るい子は、ちょっと傷ついても次の日には笑っている。 そんなルール、誰も言っていない。 言っていないのに、いつの間にか自分で守っている。「……面倒くさ」 芽衣は日向弁当の厨房で、卵焼きを巻きながら小さく呟いた。 朝の仕込みは戦争だ。 父は唐揚げを揚げている。 母はレジ横の予約表を確認している。 炊飯器からは湯気。 まな板の上には、刻まれた漬物。 ラジオからは、天気予報と交通情報。 いつもと同じ朝。 なのに、芽衣の頭の中には、昨夜の匿名ラジオのコメントが残っていた。【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】 あれは、たぶん自分にも関係がある。 認めたくないけど、ある。「芽衣、
第13話 白湯ラジオ、二回目 翌朝、喫茶こもれびのカウンターには、おにぎりと卵焼きと白湯が並んでいた。 喫茶店とは。 いや、もう考えないことにした。 この店は、数日前から喫茶店というより避難所であり、商店街会議室であり、謎の匿名ラジオ局であり、日向弁当の出張所でもある。 コーヒーだけは一応ある。 ただし、常連の老人から毎日まずいと言われる。 俺はカウンターに立って、昨夜の短い配信アーカイブを確認していた。『夜の商店街、まだ明かりついてます』 二回目……と呼ぶには少し短かった。 正確には、予定外の短い放送。 テーマは、優しい言葉が怖い日。 こはるは、たどたどしい声で言った。『優しい言葉が、怖い時があります』 その言葉は、コメント欄に思ったより深く刺さっていた。【分かる】【大丈夫?って聞かれるのしんどい時ある】【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】【おにぎり食べます】【白湯とおにぎり、優勝】 最後だけ急に生活感が強い。 だが、悪くなかった。 むしろ、このラジオはそういうものなのかもしれない。 深刻な話をしているのに、最後は白湯や卵焼きやおにぎりへ戻ってくる。 逃げているようで、逃げていない。 重いものを、食べられる大きさに切り分けている感じ。 俺には、そう見えた。 ソファでは、白瀬こはるがホワイトボードを膝に乗せて座っている。 声はまだ完全ではない。 昨夜、少し話した後はまた喉が詰まった。 真柴さんからも「声は短時間のみ。無理をしないでください」と追加の連絡が来ている。 業務指示が少し人間らしくな
第12話 神谷レンは、優しい顔で火を近づける 神谷レンという男は、昔から文章がうまかった。 うまい、というより、綺麗だった。 角がない。 刺がない。 読み手が勝手に好意を補ってくれる余白がある。 たとえば、今朝届いたメッセージもそうだ。【昨日の配信、聞いたよ。いい声の子だね】 ただ読むだけなら、褒め言葉だ。 昨日の匿名ラジオを聞いた。 声がよかった。 それだけ。 何も悪いことは書いていない。 誹謗中傷でもない。 脅しでもない。 むしろ、優しい。 けれど、その「優しさ」の形が、俺の胃の奥を冷たくした。 いい声の子。 それは、こはるの一番柔らかい場所に触れる言葉だった。 彼女は声で生きてきた。 声で救われ、声で求められ、声で追い詰められ、声が出なくなった。 それを知っているのか。 知らずに言ったのか。 どちらにしても、嫌だった。 俺は喫茶こもれびのカウンターで、スマホを伏せたまま、しばらく動けずにいた。 午前中の店内は、いつも通り静かだった。 源三さんは新聞を読みながら、まずいコーヒーを完飲している。 芽衣は弁当屋に戻ったり、また来たりを繰り返している。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードを膝に置き、昨日のアーカイブのコメント欄をゆっくり読んでいた。 たった十二人のコメント欄。 その小さな場所が、今の彼女には大事だった。 だからこそ、俺は神谷レンのメッセージをどう扱うべきか迷っていた。 見せるべきか。 見せないべきか。 隠せば、こはるは今の穏やかな顔のままでいられるかもしれない。
第11話 同接十二人の朝 朝になっても、十二という数字は消えていなかった。 喫茶こもれびのカウンターに置いたノートパソコンの画面に、昨夜の配信アーカイブが残っている。 番組名は、まだ少し照れくさい。『夜の商店街、まだ明かりついてます』 最大同時接続数、十二人。 総再生数、三十四。 コメント、二十七件。 どれも、昔の俺なら気にも留めなかった数字だ。 いや、気にも留めなかったどころか、見た瞬間に胃が沈んでいたと思う。 登録者八十万人の頃、同接が少し落ちただけで、俺は配信後に何度もアナリティクスを見直していた。 何分で離脱されたか。 どの話題でコメントが減ったか。 どのゲームなら数字が取れるか。 次は誰とコラボすれば伸びるか。 そんなことばかり考えていた。 十二人。 昔の俺なら、敗北の数字だった。 でも昨夜、こはるは言った。「十二人も、いました」 その声が、まだ耳に残っている。 細くて、掠れていて、泣いた後の、でもどこか嬉しそうな声。 俺は、パソコン画面を見つめながら、冷めかけたコーヒーを飲んだ。「まずい」 自分で言ってしまった。 悔しいが、まずい。 源三さんに毎日言われているせいで、味覚まで洗脳されてきたのかもしれない。 ソファの方を見る。 白瀬こはるは、毛布にくるまって眠っていた。 昨夜の配信後、彼女は卵焼きを一切れ食べ、白湯を飲み、それから力尽きるように眠った。 スマホはタオルに包まれたまま、テーブルの端に置いてある。 途中で何度か震えた。 俺のスマホも、何度も震えた







